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寿亀山天樹院弘経寺

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弘経寺の宝物

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金銅阿弥陀如来立像

 弘経寺に千姫の持仏として伝わるもので、善光寺式の阿弥陀如来像です。善光寺式とは信濃善光寺の本尊を模したものという意味で、善光寺のご本尊は、仏教が我が国に伝来したときに百済聖明王が欽明天皇に献じたと言われる長一尺五寸の阿弥陀像と長一尺の観音・勢至像が、推古十年(六〇二)に信濃国に移されたもの、との由来があります。中・近世を通じて数多くの模作が造られており、この像もその伝統を踏襲したものです。

 本来は三尊形式でしたが、その中尊のみを残したと考えられます。千姫持仏の名にふさわしい秀作で、その像様からは鎌倉時代末期に当たる13世紀最末から14世紀初頭の製作と考えられます。

金銅阿弥陀如来立像

【市指定文化財】

紺紙金泥阿弥陀経

 千姫の子で成人したのは本多忠刻との間に生まれた勝姫ひとりですが、この勝姫と岡山城主・池田光政との長女である奈阿姫が、亡き祖母・千姫菩提の為に書写して奉納したのがこの浄土三部経です。「仏説無量寿経」上下二巻、「仏説観無量寿経」一巻、「仏説阿弥陀経」一巻の計四巻で、紺紙に金泥を用いて書写されています。

 奥書には弘経寺の十八世である玄誉万無和尚がしたためた識語も見え、金蒔絵の三葉葵紋をあしらった豪華な黒塗の箱に収められ、寺宝として大切に保存されています。

紺紙金泥阿弥陀経

【市指定文化財】

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千姫姿絵

 千姫(天樹院)の姿を描いたものとして知られる絵は、世に二つ存在します。ひとつは名古屋の徳川美術館の所蔵する「本多平八郎姿絵屏風」で、徳川四天王の一角を成す本多家の若き貴公子・平八郎忠刻と千姫の出会いの場を描いたものです。右扇に侍女に手紙を読ませる葵紋を散らした鹿の子絞りの小袖を着た女性が描かれており、これが千姫であるといいます。

 もう一つが弘経寺に伝えられてきたこの姿絵です。風俗画的な先の屏風図と趣を変え、描かれる千姫の姿もその表情も写実的であり、落飾後の千姫壮年の絵像と伝えられています。右手を肘掛に、左手を膝の上にのせて座しており、鹿の子絞りに三葉葵紋を散らし、裾にはあやめをあしらった華麗な打ち掛けを着流す、間着の胸元には藤の花が描かれています。顔立ちはやや面長だが、頬のあたりはふくよかで美しい。織田信長の妹で絶世の美女と言われた祖母・お市の方に似たのでしょうか。書見に飽いて煙草を所望されたのか、膝もとには方形の煙草盆も置かれています。

残念ながら作者・製作年代とも不明ですが、構図や葵紋の描き方から江戸時代初期の作ではないかと思われます。

千姫姿絵

【市指定文化財】

紫龍石の硯

 硯の中の硯と評される中国広東省端渓に産する石を用いた八角形の硯で、周囲に龍の彫刻が施されることからこの名があります。千姫遺愛の品と伝えられており、千姫の没後、その御殿とともに弘経寺に遺されたものと思われますが、直径32センチメートルを測る大形のもので女性の持ち物として相応しい品とは思えません。

由来を説けば、泉州堺の貿易商で後のキリシタン大名・小西行長が朝鮮出兵の際に持ち帰り、豊臣秀吉に献上した品で、その後、秀吉から徳川家康、さらにその孫の千姫と譲り渡されました。

 中央の陸の部分には使用の痕跡がよく残り、それぞれに愛用された品であることが伺えます。残念ながら製作年代・作者はわかっていません。

紫龍石の硯

【市指定文化財】

弘経寺扁額

 本堂に掲げられた寺号を刻んだ扁額で、寺史には「寛永六己七月諸堂成就せしゆゑ弘経寺といふ三字の横額天樹公主筆を染させられし由にて同月十五日送らせらる」とあり、千姫直筆として永く護り伝えられてきました。

 漆塗・金箔を施した木製のもので、意匠・技巧ともに優れており、将軍家たる徳川宗家の姫がその菩提寺と定めた寺の、本堂落慶の記念に贈った品としてふさわしい。額面右手には「源秀忠公御息女天樹院建立」と千姫の名が刻まれ、左手には「寛永六年己巳七月十五日住持団連社照誉大和尚」とあり、本堂の造営が始まったとされる寛永6年(1629年)に製作され、贈られたものであると考えられます。

弘経寺扁額

【市指定文化財】

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鉄切付盛上黒漆碁石頭縹糸素掛威二枚胴具足

 弘経寺に所蔵されてきた甲冑(かっちゅう)で、「名越の甲冑」とも呼ばれております。

 名越家は北条氏支族で、鎌倉幕府滅亡のときには執権北条高時に殉じ一族34人が自刃しています。弘経寺開山の嘆誉良肇は、この名越家の嫡流)であり、この縁をもって後世本具足が弘経寺に寄贈されたものと考えられます。

この具足は、縫延桶側胴具足とも称し、胴・袖に室町時代末期から桃山時代にかけて流行した一様式を見ることができます。華麗さはありませんが、実戦的な中にも威糸・礼(さね)等に変化と装飾を加えるなど、着用者の風尚が偲ばれます。特に、兜には無名ながらも室町時代末期の相州甲冑師の特徴がうかがえる優れた技巧が尽くされています。時代・地域・流派の特徴と当時の戦闘の様相がわかる貴重な資料といえます。胴総高62cm、鉢高21.4cm。

鉄切付盛上黒漆碁石頭縹糸素掛威二枚胴具足

【市指定文化財】

葵紋付五條袈裟

 三葉葵紋を散らした冬用の五條袈裟で、千姫遺愛の品として弘経寺に伝えられてきました。

 「五條袈裟」とは、縦に接ぎ合わされた布の條数が五つある袈裟の意味です。おそらくは落飾後の千姫が愛用した品であると思われますが、良質の絹を選んで造られており、千姫所用にふさわしい出来栄えの品であります。

葵紋付五條袈裟

五智如来像

五智如来とは、密教にいう五つの智慧をこれを象徴する仏たちにより顕したものです。中央の『大日如来(だいにちにょらい)』は、大宇宙に遍満する絶対不変なる真理そのものであり、最高の智慧である「法界体性智(ほっかいたいしょうち)」を示し、東の『阿如来(あしゅくにょらい)、万物を写す鏡のように、この世の真実をありのまま見詰める智慧である「大円鏡智(だいえんきょうち)」を、南の『宝生如来(ほうしょうにょらい)』は、万物を差異あるものと見る意識を離れて、根源は平等と見詰める智慧である「平等性智(びょうどうしょうち)」を、西の『無量寿(阿弥陀)如来(むりょうじゅ(あみだ)にょらい)』は、衆生の持つ差異をよく観察して、その特性に応じて教えを説く智慧である「妙観察智(みょうかんざつち)」を、北の『不空成就如来(ふくうじょうじゅにょら)い』はもろもろの所作や教化を成就する智慧である「成所作智(じょうそさち)」を表します。即ち『五智』は「この世の万物はそれぞれに違いや特性はあるが、その根源は一つであり平等である。根源は一つであり平等であるが、それぞれ違いや特性を持って宇宙は成り立つ。人間も内に五智を秘め、宇宙も五智を秘めている。人を包む宇宙と、内に秘められた宇宙が一体である」という思想を示しています。 ここに安置されるのは中央の大日如来が智拳印を結ぶ金剛界五智如来像であり、悟りへの道筋を示します。浄土宗寺院である弘経寺本来の仏像ではないと思われるが、古絵図には鬼怒川岸よりの参道である大門通の途中に「五仏堂」が描かれており、そこに安置されていました。室町時代の作と見られる不空成就如来像を除き、各像とも江戸時代中期の製作であるが、いずれも坐高四尺をはかる大像であり、その姿は威厳に満ち壮観です。

五智如来像
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