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■ 由緒沿革 |
弘経寺は、正式名称を『寿亀山天樹院弘経寺』と称し、応永21年(1414年)嘆誉良肇上人によって創建されました。
室町時代には関東浄土宗の中心寺院として栄え、多くの学僧を世に送った有力寺院でありました。ところが天正5年(1577年)壇越常陸下妻城主多賀谷氏と小田原北條氏の合戦に巻き込まれ多賀谷氏が弘経寺に陣を張ったために、戦火で堂宇を焼かれましたが、第九世壇誉存把上人は下妻に逃れ、後に結城に秀康の帰依を得て結城に弘経寺を再建しました。
そのため弘経寺は寺院活動の停止を余儀なくされましたが、第十世照誉了学上人の代に寺院再興の時期を迎えます。上人は、徳川三代(家康・秀忠・家光)から帰依、厚遇され特に家康公の孫にあたる千姫は上人に帰依し、弘経寺を菩提所を定め、再建に多大な寄進をしました。そのため、江戸時代には紫衣壇林として十八壇林の中でも上位に置かれる寺院になりました。
惜しくも千姫の御殿を移築した壮麗な大方丈は明治39年(1906年)に灰燼に帰しますが、天樹院殿御廟(千姫の墓所)や遺品、そしてゆかりの品々は、往時の風格を現代に伝えています。 |
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■ 概要 |
山・寺号 |
寿亀山天樹院弘経寺 (じゅきざんてんじゅいんぐぎょうじ) |
所在地 |
茨城県常総市豊岡町甲1番地 |
開山日 |
応永21年(1414年) |
開基 |
嘆誉良肇 >歴代上人法名 |
本尊 |
浄土宗寺院の本堂におきましては中央に信仰のご本尊であります阿弥陀如来を安置申し上げます。あるいは弥陀三尊といって阿弥陀如来と阿弥陀如来の脇侍として阿弥陀仏の慈悲のお徳を表す観音菩薩を向かって右側に、そして阿弥陀如来の知恵をあらわす勢至菩薩を左側に安置しております。 |
宗旨 |
浄土宗 |
教義 |
阿弥陀如来のお誓いを深く信じ、南無阿弥陀仏と称えることによって、どんな愚かな、罪深い者でも、全ての苦しみから救われて、明るい安らかな生活を送ることができ、そのままの姿で、立派な人間へと向上し、やがて、お浄土に生まれることができる教えです。 |
称名 |
「南無阿弥陀仏」と称えます。 |
本山 |
総本山 知恩院 大本山 増上寺 |
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■ 天樹院・千姫 |
徳川家康の孫、千姫は二代将軍秀忠の長女として慶長2年(1597年)伏見でお生まれになりました。7歳にして豊臣秀頼(11歳)の妻となりましたが、元和元年(1615年)の大阪夏の陣では、夫とその母・淀君の救命嘆願に出城するものの、果たせずに二人は自害してしまいます。
その翌年、30歳の時に本多忠刻のもとに再嫁。勝子姫と幸千代の二児に恵まれ、姫路城で平穏な日々を過ごします。
ところが寛永3年(1626年)、夫・忠刻と長男・幸千代を病に没してしまいました。失意の中、当時30歳の千姫は江戸城に戻り、落飾して天樹院と称します。その戒師をつとめたのが、深く帰依しておりました弘経寺第十世照誉了学上人(のちの増上寺第十七世)であります。千姫は弘経寺が荒廃しているのを知り、多大な寄進を行いました。
時は、弟の三代将軍家光の時代でしたが、千姫は家光から尊敬と信頼を受け、家光の子・綱重の母代となっています。また秀頼と千姫の間には子はありませんが、秀頼には庶出の子が二人ありました。男子は幕府の手により幼くして世を去りましたが、女児は千姫が命乞いをし、のち鎌倉の東慶寺へ送り門跡・天秀尼となりました。しかし天秀尼は比較的早く世を去り、豊臣家の正統は絶えてしまいます。千姫の思いはいかばかりだったでしょう。
千姫はその後、江戸城北の丸、竹橋で70歳の天寿を全うし、その波乱に満ちた生涯を閉じました。弘経寺には千姫の貴重な足跡が残されています。 |
千姫姿絵
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■ 嘆誉良肇上人 |
延文4年(1359年)、下総猿島郡冨田に生まれました。父は北條家の一族名越右馬助の嫡子太郎時藤、母は富田の地頭飯田監物重信の娘でありました。鎌倉幕府滅亡の際、時藤の父、名越右馬允が知己の重信を頼って富田へ来たのが、良肇の父母が出会う縁となりました。
16歳の時に父が戦死すると、良肇は北条家の菩提を弔うために出家し、始めは浄土真宗報恩寺に入門しましたが、後に常陸瓜連の常福寺開山の成阿了実上人について学び、浄土宗に改宗しました。その後、青柳(取手市青柳)本願寺において聖冏(伝通院開山)の教化を受け、帰郷して報恩寺に戻りました。聖冏上人が元中3年(1387年)に常福寺の第二世となり瓜連へ移ると、聖冏の横曽根談所を相続し、学頭として学衆を養成しました。
応永4年(1397年)から横曽根安養寺に寄寓していましたが、応永21年(1414年)横曽根城主羽生経貞・羽生城主羽生吉定を檀那として飯沼の地に一寺を建立、弘経寺を開山しました。良肇上人56歳の時でありました。同年、下総相馬郡大鹿村(現在の取手市)に草庵を設け、弘経寺と称したが、飯沼の弘経寺と区別するため「新弘経寺」と呼びました。
それから永享10年(1438年)に示寂するまでの25年間、後進の育成に精魂を傾けました。 |
■ 照誉了学上人 |
天文18年(1549年)、下総国千葉市の重臣・高城胤吉の三男として、武蔵国糀村(現在の千代田区麹町)で生まれました。幼い頃に家臣の猶子となりましたが、13歳の頃に父に願い出て東漸寺に入って出家した。和歌や神道などにも通じるなど博識として知られ、天正12年(1584年)には東漸寺第七世住持となりました。当時の小金城主は甥の高城胤則であり、その保護を受けました。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の関東平定によって小金城は陥落し、高城胤則も所領を失うましたが、新領主となった徳川家康が浄土宗を信仰していたため、寺領の安堵を受けました。
その後は、戦乱で荒廃した各地の浄土宗寺院の再建に尽力し、常陸国飯沼(現在の茨城県常総市)の弘経寺を再建し、続いて上総国大多喜城主本多忠勝の依頼で城下(現在の千葉県香取市)に松林寺を創建しています。特に本多家では忠勝の孫・忠刻の妻となった徳川家康の孫娘千姫も含めて家族挙げて了学に帰依し、忠勝が病死した際には遺言により了学が葬儀を行っています。
この間、慶長5年(1600年)頃に徳川家康の推挙で紫衣を授かり、家康の要請で度々江戸城や駿府城において講和を行いました。家康の後継者となった徳川秀忠は了学から受戒を受け、病気平癒の祈祷を行わせるなど、深く帰依しました。寛永9年(1632年)に秀忠が危篤に陥ると、了学が徳川氏の菩提寺である増上寺十七世貫主に任じ、併せて増正任命を取り計らいました。秀忠の死後、了学を導師として葬儀が行われました。秀忠の葬儀と増上寺の徳川家菩提寺としての整備計画を立てて実施の運びになった事を見届けた同年の終わりには、徳川家光より与えられた四谷伊賀町の土地に日輪山了学寺(現在廃寺)を創建してここに隠棲して余生を送りました。 |
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■ 良肇上人と飯沼の亀 |
弘経寺の開山である嘆誉良肇上人は下総国猿島郡富田の生まれと伝えられ長い修行の末に横曽根城主・羽生彦四郎の寄進を得て弘経寺を開きました。
東に鬼怒川が流れ、西に飯沼があり、北に鬱蒼とした山林の広がるこの地を境内地に選ぶに当たっては三猿が出現し、これを勧めたといいます。四方を谷が巡り、まるで亀の甲羅のような地形であったため「亀島山」と号しましたが、この時、飯沼の主の大亀が現れ「この土地は私のものである。すぐに立ち去ってほしい」と告げました。良肇上人は十年間土地を借りることを願い許されましたが、十年後にはこの亀が再び現れ、土地を返すよう求めたといいます。上人は借用書に一点を加えて「千」としたため、亀は何も言わず立ち去りました。良肇上人はこの後、山号を「寿亀山」と改め、この亀の徳を讃えたといいます。弘経寺の開山は応永21年(1414年)、次に大亀が現れるであろう西暦2414年が楽しみです。 |
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■ 来迎杉と化僧・宗雲 |
境内にある杉の大木には「来迎杉(らいごうすぎ)」の名があります。当山二世の了暁上人(15世紀中頃)の頃の話と伝えられますが、弘経寺で修行中の多くの僧の中に宗運という名の勉強も熱心で、大変優れた若者がいたといいます。機転に富み、歌や踊りにも巧みであったため、毎年の開山忌の法要の後には彼とともに歌や踊りに興ずることを僧たちも村人たちも楽しみしていたといいます。ある年の開山忌の日、徹夜の法要に疲れた宗運はひと休みのつもりが前後を失い、深く眠り込んでしまいました。了暁上人が宗運の眠る部屋を通りかかると、あろうことか宗運の尻に尾を見つけてしまいました。宗運の正体は「狢(むじな)」だったのです。獣の身でありながら僧になりたいという宗運の心根を愛でた上人は着けていた衣でそっと尻尾を隠し、その場を立ち去っりましが、わが身の不覚を恥じた宗運は寺を立ち去る決心をしたといいます。
寺の皆に別れを伝えた宗運は、境内の杉の大木に登りこう言いました。「私はこの杉の梢に御来迎を願い、これを受けて極楽浄土に行きたいと思います。でも、弥陀が現れになられても、どうか御名号を唱えないで下さい。どうぞ南無阿弥陀仏といわない下さい・・・」沈黙の時が流れる。やがて大杉の梢には瑞雲がたなびき、阿弥陀仏の御来迎が訪れました。そのあまりの尊さに人々は宗運の言葉も忘れ、手を合わせて南無阿弥陀仏・・・と唱えます。その時です。光は雷に変わり、これに打たれた宗運は東の空へ向かい遠く飛ばされました。数日後、川の畔の村に一匹の狢の死骸が流れ着きます。これこそが雷に打たれ飛ばされた宗運の亡骸であり、鬼怒川に落ち、小貝川へと流れ、たどり着いたものでしょう。宗運の流れ着いたこの岸辺はこれ以降、「狢淵(むじなふち)」の名で呼ばれることとなります。現在のつくばみらい市狸淵です。そして、境内の杉の大木にも『来迎杉』の名が付けられ、その傍らに建てられた小さな祠には、宗運が自ら彫ったとされる面が納められたと寺伝は伝えています。 |
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